メタボラ 桐野夏生

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桐野夏生は1951年石川県金沢市生まれ。
成蹊大学卒業。1993年、第39回江戸川乱歩賞受賞作『顔に降りかかる雨』でデビューを果たした。

恥ずかしながら桐野夏生を読むのは 『メタボラ』が初めてである。今『残虐記』を読んでいる。これは「幼女監禁事件」をテーマにしている。これらから著者は社会をテーマにした小説を主としているのだと思ったがロマンス小説、レディースコミックの原作も手がけていることである。

本書『メタボラ』は2005年11月から2006年12月21日 朝日新聞に連載されていた小説である。600頁の長編。本書帯には「破壊されつくした僕たちは、〈自分殺し〉の旅に出る。」とコピーが書かれている。このコピーに惹かれ本書を購入した私だが耳障りのいい冒険でもロードフィクションでも全く無い。圧倒的な現実を感じ今を生きるある若者のレポートを読んでいる様だった。そこには現実から遊離したキャッチーなコピーはいらない。

600頁ぐいぐいと引き込まれ一気に読ませられた。読後の爽快感はない。私が偶々そうならなかった恐るべき現実がそこにあったからである。「僕」にならなかったのは偶々である。「僕」の人生は物語や虚構に思えない、社会の一事例である。

『メタボラ』を連載していた朝日新聞ではバブル崩壊後の大不況に喘ぐ若い世代を「ロスト・ジェネレーション」と名づけた。(今、25歳から35歳にあたる約2千万人は、日本がもっとも豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。「第2の敗戦」と呼ばれたバブル崩壊を少年期に迎え、「失われた10年」に大人になった若者たち。「ロスト・ジェネレーション」。第1次大戦後に青年期を迎え、既存の価値観を拒否した世代の呼び名に倣って、彼らをこう呼びたい。)桐野夏生は何を読者に突きつけたかったのだろうか。『メタボラ』が新陳代謝、都市を生物として捉えるなどの意であるなら社会が健康、不健康であるに関わらず生きていくのにあたり老廃物は出る。それが何時であっても。それがたまたまニートであり下流社会でありドメスティック・バイオレンスでありホスト通いであり請負労働であり集団自殺でありワーキング・プアであり見届け屋であると。良いとか悪いとかではない、社会が新陳代謝するならば老廃物は必然であると言いたかったのと考える。

ロスト・ジェネレーション」である私は他人事でも社会の新陳代謝とでも考える事など出来ない。「僕」に共感し「ジェイク」を始めとする若者達を非審判的に受け入れたい。『メタボラ』で明らかにされた現実に触れ私を含めた読者達は社会に対し何かを働きかけなければ読後の息苦しさを脱する事は適わない。