赤朽葉家の伝説 桜庭 一樹

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作者は鳥取県米子市出身。1999年、桜庭一樹名義で「夜空に、満天の星」でデビュー。2008年、『私の男』で第138回直木三十五賞受賞。

本書について作者は 「ガルシア=マルケスの『百年の孤独』のように国の歴史と混然一体となった一族の話を書きたかった。そうした一族が日本にいるなら山陰のような地方都市だろうって……」と述べている。昭和28年の鳥取から昭和の果てまで、製鉄業を営む赤朽葉家の女性三代に連なる物語、そして並行する日本の歴史、風俗。

地方の富裕な一族、そしてその衰亡の歴史といえば一族内の家督争い、きな臭い噂、どろどろとした人間関係、が思い浮かんだのだがそんなものは私の中の貧困なるイメージであった。また、山の民(サンカ)の捨て子万葉が千里眼でそれが所以で赤朽葉家に迎え入れられたとするなら座敷童伝承の一族繁栄の守り神的幽閉と苦悩、異能力者として里に送り込まれた伝奇というこれまたどこぞの少年漫画でや80年代後半の小説郡のような使い古された展開もない。

そこにあったのは赤朽葉家と日本の歴史への「中立な視点」である。製鉄場には『もののけ姫』でおなじみのたたら場も出てくるのだがそれらのような自然との対立・関係を述べることもない。高度経済成長に伴う製鉄場の反映、オートメーション化による機械が人間から役割をとりあげること、そしてオイルショックによる大不況。これは定まった歴史でありそれを評する事はされていない。これは未来視である万葉がその未来を悲しげに受け入れることも同様である。

鳥取について「(東京に出た)当時は『鳥取なんてなくなっちゃえ』と思っていたほど嫌いだった。今思うと、保守的な土地で何かになりたくてくすぶっていた自分が嫌だった」「辺りを散歩してもいい町と思えたし、地方都市の人生も肯定的に描けました」作家になれた安心感で「故郷が怖くなくなった」これらを作者は語っている。故郷への否定が受容に移っていった内的態度が中立的な視点、描写に繋がったと考える。

そういった描写を抑え際立ってくるものは「女性の喜びと悲しみ」である。戦後から昭和末期まで時代性による女の役割、社会性。見ず知らずの家へとつぐのがあたり前とされたこと。祭りでの夜這い風習。80年代の校内暴力。全国制覇を掲げる不良文化。また母として子供をもうける喜び。そして失うことが未来視として分かってしまう悲しみ。
少女には向かない職業」でも少女の複雑な友情を描き、私には正直分からないと考えた。だが、本作を読んで女性をとても深いところまで描いているからこそ男である私には理解できないのだ。女の人はそんな風に考えるのだ異なる存在だ理解し得ないと感じている。つまり先に挙げた「中立的な視点」は決して浅く淡々とした物語であるというわけではなく女性についてとても深遠に描いているのだ。と感じたのだが女性からそこらを伺ってみたい気がする。

残念なのは最後をミステリー仕立てにしたところである。万葉の死とともに物語は急速に力を失い後はただのエピローグとなってしまう。思い切って無くしてしまえばいいのに。
現代に連なる部分が希薄で魅力がないのは作者自身の境遇を描いているのか。万葉の死により赤朽家を背負う決意をすることは作者が小説家として生きる決意と重ねたのか。

私も皆と同じことを言おう「傑作」である。サンカについて感心を持った、山陰の歴史、民俗学を調べ本書にどう作用したのか考察を深めることをしようと考える。

蛇足:神林長平(SF作家)の「七胴落し」が好きだそうだ。私も大好きである。