フーコー入門 中山 元

19774242
フランスの哲学者ミッシェル・フーコーの展開した概念群を初期、『狂気の歴史』からフーコー最後のプロジェクト、統治性のプロジェクト
までを取り上げている。

 本書の思考とはフーコーの思考の軌跡を追い、フーコーという思想家の思想棚卸しを行うのではな<現在>に生きるわれわれが自分たちの生き方を問い直し社会を変革していく武器とするためである。果たして私は武器を得ることが出来たのだろうか。

『狂気の歴史』では狂気が<神懸り>であり、人間が理性で見えないものを見る眼を神に植えつけられた。が歴史とともに狂気が病となるのだ。狂気が病となり精神医学と心理学が生まれる事となった。精神病院が精神病患者を生み出し、狂気を批判の対象とした。また人間科学の誕生から人間は発明され、近いうちに人間は終焉する。学門は当たり前にあるものではない。歴史の必要性が学
問を産んだ。私たちが当たり前に考えている知識や教養も学を考古学していけば成立した背景を紐解けるのだ。

 精神病院、福祉施設は時代のモード(流行)により左右される。人里はなれた山奥に収容される患者。数十年の社会的入院。歴史が変われば地域で暮らす高齢者。痴呆から認知症かみだーりから統合失調症。(精神分裂症から統合失調症)外出の促進。拘束から尊厳のある介護へ。主体である精神病患者、高齢者は変わらない。歴史が彼らを変えるのである。

ニーチェ・系譜学・歴史』では真理。「真理を語るものはだれか」「真理とはそれなしにある種の生物が生きて生けないごみょう。真理はどうしても信じざるをえないものとして存在し現実の社会の権力的な関係において戦略的な機能を発揮すると解明する。スターリニズムカンボジアの虐殺しかり。

 真理を舞台裏から眺める感。が、これは難しい。真理がそこにあるならすでに戦略的にもうどうしようもないよう私が組み込まれているのだ。だとすれば後世の歴史で過ちを語られても私は避けることができないではないか。逆説的に真理だから。真理とされるものを舞台裏から覗けるよう構造を知れということか。

 権力は外部から抑圧されて訪れるものではない。人々が他人との関係性のなかか己の欲望を追求するなかで発生する場のようなも
の。

 権力が上から、外部にあるのではなく私たちがいる限り場として生まれるなら反権力は愚かしいことなのか。

 福祉社会は美しいが福祉の名の下に国家が国民を管理している社会保障を理由に国民情報をよりいっそう収集しているのではないか。またシステムに属さないことを望んだものには福祉が与えられないのだろうか。また国家は従順な体をつくる。福祉国家における疾病、出生率、死亡率の管理は一見穏やかな権力に写るがこれは経済コストの為労働力を効率的に確保する、国家の利益を守る権力である。

社会福祉に携わる人間が声高に社会保障の冷徹さを叫びヒューマニズムを説いても、全くの平行線なわけである。国家は私たちから湧き上がった権力でしかないなら支払うコストに効果が見合うものでなければシステムとして不完全でしかないのだ。(「国家理性」国家は国家の力の維持そのものを自己目的としている。)

 思想は生活していく上で役立つツールでなければならない。とフーコーは述べている。上に上げたのは私が特に気になったキーワードである。私が実際にフーコーの思想概念群を理解したとは考えられない。本書のヴォリュームでは仕方ないのかもしれない。

 本書最後にフーコーは様々な支配を受けてういるわたしたちが今の真理を暴露し別の真理をみいだしよい関係ができる可能性を探れればとなんとも消極的に記されている。

 私がツールとして得たのはマスメディアから発信される違和感を感じた言葉が「国家理性」や権力としての人格で述べられてる事に気づかされたということだ。

私をはじめ多くの個々人がミニマムに考えていれば分からないはずである。だが国家はあるのだし解体されることもないだろう。支配を善悪ではなくあるものとして捉えれば、分からなかった関係から他者として認められることまでは出来そうだ。生活していくのに役立つまではいかないが括り付けられている見えない糸が目に映るようになった程度か。あらぬ方向へ引っ張られるのにもう驚きはしない。