グレート・ギャツビー スコット・フィッツジェラルド

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この作品はアメリカの小説家F・スコット・フィッツジェラルドによって1925年に書かれた。長編小説としては1920年『楽園のこちら側』(This Side of Paradese )、1922年『美しく呪われし者』(the Beautiful and Damned)に次ぐ
三作目である。今作は20世紀アメリカ文学を代表する作品と評されている。

主人公、ニックはアメリカ中西部からニューヨーク郊外に移り住む。隣には豪華な屋敷。そこに住むのは夜毎大騒ぎのパーティーに明け暮れる謎の男ギャッビー氏。

ニックはギャッビー氏と係ることなり、氏の意図を知ることとなって行く。

 物語は転がり始め読者は20年代アメリカに引き込まれることとなる。この1920年代は「失われた世代」と呼ばれる。1920年から1930年代にかけてのアメリカの小説家を指し、また広義には第一次世界大戦後の青年を指す。

初めての世界大戦を経て人が意味も無く死ぬ事を体験する。自分も含め人の死は最初から意味はなかったことに気づくのだ。そこで価値観の顛倒を起こす。自分たちの親から受け継いだ価値観、世界観はなんだったのだろう。キリスト教的世界観から圧倒的な現実、価値の無い死の前は誰しも等しいことに嫌でも気づかされたのだ。「失われた世代」は世界を冷笑的に見ることとなる。

 フィッツジェラルドは妻となるゼルダと出会い婚約するがフィッツジェラルドの生活力のなさから一度婚約を解消している、その後『楽園のこちら側』がベストセラーになった際再度婚約、結婚している。ゼルダは結婚後社交界を飛び回り散財し続ける。フィッツジェラルドには彼女を支えるだけの財力はなかった。作中でも華々しい社交界、奔放に暮らし愛人を囲う様が描かれる。ただ、そこに主人公ニックの評はない。他の登場人物に比べるとニックは感情の揺れが少なく感じる。ニックの冷静な目を通し華やかで贅沢を尽くし物を溢れさせてもそこには心が残らないこと、ロマンチックに信じられない程深い愛でも心が叶わず、また物が残り続けること。心だろうが物だろうが等しく下らないという厭世観を感じる。
 
ニックを通し「失われた世代」が観察するアメリカを眺望できる作品である。そこに心を求めるのか物を求めるのか、奇しくもアメリカ「失われた世代」にちなんで名づけられた日本の25歳から35歳、「ロストジェネレーション」は何かを得れるのだろうか。シニカルに1920年アメリカを感じるのは間違いないだろう。ただ当時アメリカには華やかさがあるだけましだという、羨望を抱くのか。