光市母子殺人事件 少年は死罪にならなければならない理由。倫理学から。

 連日ニュース新聞等で報道される「光市母子殺人事件」。これは 1999年当時18歳の少年が山口県光市の社宅アパートに強姦目的で押し入り排水検査を装って居間に侵入した少年は、女性を殺害した上で強姦の目的を遂げようと決意。頸部を圧迫して窒息死させた。
 その後、少年は女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘を床にたたきつけるなどした上、首にひもを巻きつけて窒息死させた。そして女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。
 少年は盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり友達の家に寄るなどしていたが、事件から4日後の4月18日に逮捕された。というのが事件のあらましである。ここに「死刑反対派」の弁護団21人が荒唐無稽なストーリーを描き聞くに堪えない法廷茶番となっている。

 が、少年は死罪にならねばならないだろう。それは法律以前による社会の成り立ちから導かれる。17世紀のイギリス思想家ホッブスは『リバイアサン』の中で社会契約を述べている。ホッブスの考えでは人は絶え間ない欲望に満ちており欲望につき動かせれている。だがその人がそれぞれ好き勝手に欲望のまま行動していたらどうなってしまうのでしょうか?

 皆が社会で生きていくにあたり平和を(この場合は他者から危害を受けないという意味)維持していには平和を維持する契約を社会と結ばなければならない。そして「自分が結んだ約束は履行すべし。」ただしこれには「他者が信約を守る限りにおいて。」とあります。

 つまり人間ってのは好き勝手やりたいんだけど、他人の好き勝手に自分が巻き込まれて嫌な思いをしたくない。
じゃあ守ってくれる権力と契約しましょう。という話。この少年が弁護士の力で死刑を免れることになればなんの非もない本村さん一家のように災厄が降りかかる社会であることを認めてしまうことになるのです。信約を守らなくても社会が守ってくれて社会に戻ることが出来ればまじめに契約を履行することが馬鹿らしくなるのではないでしょうか。

 道徳的に生きる人が不利益を被り、欲望に突き動かされて法律(契約)を破る人が得を得る。こんな社会には皆納得しないし安心して暮らせないじゃないですか。